いつかどこかの世界
 『ワカヤマール物語』
 〜月の砂漠のハルバルト〜

いつかどこかの世界に、ワカヤマ−ルという国がありました。
ワカヤマ−ルは大国オオサカリアの隣にあり、これといった特徴のない国です。
けれど人の心はとてもおだやかで、
どこにもまけないことが一つだけあります。
それは国境地帯にほど近いロ−サイ山のふもとに
一人の魔女が住んでいることです。
「北の魔女アイコ−ディア」
人々は敬愛と親しみを込め、彼女のことをそう呼んでいます。


いつもの朝は、いつものようにやってきて、いつもの物語が始まります。
でも今日のいつもは、ほんの少しばかり風変わりなはじまりでした。
雪の季節が終わり、花が咲くのにはまだ少しばかり早い日の朝は、思った以上に寒いことが
多いのです。
今日のリンゴのお世話係達は、忘れずキチンとショ−ルと手袋を付けて外にでておりました。
息がキラキラと輝き、歩くたびに霜柱を踏む音がサクサクと響きます。
こんな朝はお喋りをするより、ヒイラギや杉の木みたいに黙って身体中で朝日の温もりに
身を任せていたくなります。
だって、その方が何となく心も虫干しが出来るような気がするのです。
おかしいですか?でも、そんな気がするのは何も見習い魔女だけではないと思いますよ。
さてさて、時として沈黙は居心地の良くないものですが、
魔女の家の静けさは不思議と心がホカホカ暖かくなります。
そんな穏やかな時の流れる場所にいると、ときおりパンくずをねだる鳥の声だけが、
止まらない時間の重さを教えてくれるのでした。
仕事を終えたタムラ−ヌとミヤモト−レがリンゴのつまったバスケット手を伸ばすと、
どこからか微かな声が聞こえました。
二人が同時に顔を見合わせたのですから空耳ではありません。
声がそれほど微かだったのです。
注意深く耳を澄ませると、声は沈丁花の垣根の向こうから聞こえて来るようです。
二人は大急ぎで声のする方に急ぎました。
沈丁花を丁寧にかき分けると、そこにはなんと寒そうにお爺さんがうずくまっているではありませんか。
お爺さんはガチガチふるえながらこう言いました。
「こちらはアイコ−ディア様のお住まいでしょうか?」
二人は驚きながらも、礼儀正しく膝をかがめ、「はい、そうです」と、応対をいたします。
その応えにお爺さんは安堵のため息をもらし、
「では、ここに宮廷画家のニシカワルド殿は居られますでしょうか?」と聞きました。
「今日はまだ・・・・」と言いかけた二人ですが、とにかく今はこのお爺さんを一刻も早く暖かいところへ
連れて行かなくてはと思ったのでした。
外は寒いだけではなく、彼はとても疲れているようです。
いえ、それでなくとも彼が寒さに弱いことは誰の目にも明かです。
ミヤモト−レは大慌てで家に駆け込み、ありったけの薪を暖炉に入れ、
知らせを聞いた聞いた弟子達と一緒に温かい飲み物を作り、暖炉の側に絨毯を寄せ、
大わらわで準備を整えました。
こうしてタムラ−ヌのショ−ルにくるまれてやって来た『ラクダ』のお爺さんは、
魔女の家の大切なお客様として、それは丁重に迎え入れられたのでした。

この全身が銀色の毛で覆われた立派なラクダの名前は『ハルバルト』と言うのだそうです。
ワカヤマ−ルと反対の方角に位置するトットリノ砂漠から彼は来ました。
そして今やっと目的の場所にたどりつき、暖炉の前にしつらえられた絨毯の上で
優雅にアップルティ−を飲んでいます。
焼きリンゴのおかわりを申し訳なさそうに貰っている彼に、ねぎらいの言葉をかけたのは
北の魔女アイコ−ディアです。
「ずいぶん大変な旅でしたのね。 こちらの寒さは随分と辛かったでしょうに」
アイコ−ディアが話し出すと、周囲に座った見習魔女達は身じろぎ一つせず、聞き入っております。
「はい、私どもラクダは元来寒さにはとても弱い上に、私自身も齢でございますので」
ハルバルトがそう言って微かに笑うのを、アイコ−ディアは黙って聞いておりました。
そんな思いをしてまでここに来たのですから、彼にはそれだけの理由があると言うことです。
でも、それはハルバルトがニシカワルドさんに会って伝えることです。
アイコ−ディアはハルバルトさんの身体を気遣い、少し休ませてあげることにしました。
「暫く休んでいてください、ニシカワルドさんは午後のお茶の時間より、けして早くも遅くも来ませんから」
そう言った後、アイコ−ディアはもう一言付け加えました。
「貴方はとても良い日に来ましたわ。 彼が焼きリンゴの日に来なかったことなんて、今だかつて
ただの一度も無いのですから」
アイコ−ディアが自信ありげに言うと、ハルバルトさんは大きな目を嬉しそうに目を細め、
何度も礼を言いました。
その後、やはりよほど疲れていたのでしょう、彼は程なく具合の良い絨毯に首を横たえ、
安心をしたように眠りにつきました。

さてさて、ハルバルトさんが眠った後、魔女の家には仕事の以来に来た人がポツリポツリと
訪れ始めました。
見習い魔女達はひそひそごえでお喋りをし、足音にも注意を払い
ハルバルトさんを起こさぬよう気を配ります。
訪れた人たちが少しでも大きな声をだしそうになると、飛んでいって壁の張り紙を指さし、
ニッコリと微笑むのです。
{お静かに。ラクダのハルバルトさんが眠っています}
すると誰もが「そりゃあたいへんだ」といって、当然のつとめのようにうなずくのでした。
そうです、ここはアイコ−ディアの家、何があってもけして不思議ではない所のです。
たとえ寒い北の村で、ラクダのおじいさんが寝ていたとしても、チョットも不思議なことでは無いのです。
魔女の家に来るものにとって、それは実に当たり前のことなのです。
でも、こんな日に限って配達の仕事があたってしまったオオマタ−ヌとミ−ヤ・チャンは大変です。
だって、今日はいつもと違う日なのですもの。
十分お茶の時間に帰れることはわかっていても、自分がいない間にワクワクドキドキのすごいことが
起こったらどうしようかと気が気ではありません。
そうですよね、人の役に立ちたいという気持ちと、娘らしい好奇心とが一つの心にギュッと
住んでいるのですから、お祭りとバ−ゲンが一緒にやってきたぐらいすごいことかもしれませんね。
ところで、とうのニシカワルドさんはと言いますと・・・、
実はもうずいぶん近くまでやって来ていたのです。
いつものように遠く野山を望んだり、小川のせせらぎに足を止めたり、野ウサギの巣に顔を突っ込んだり、
それはそれでかなり忙しそうなので、まだ魔女の家には来そうにありませんでした。
そんな彼が魔女の家に到着したのは、やはりお茶にピッタリの時間でした。
いつものように玄関は通らず、自分専用だと思っている垣根の隙間を潜り抜けたときです。
ご機嫌だった彼の鼻歌がピタリと止まりました。
これはどうしたことでしょう。
お茶の時間を目前にして、こんなにひっそりとした魔女の家がかつてあったでしょうか。
いつもならお茶の支度が済むまで庭の隅でぼんやり雲を眺めているニシカワルドさんですが、
今日だけはさすがに家の中を覗き込まずにはいられませんでした。
そしてとうとう期待大爆発でその時を待ち望んでいる見習魔女達の誰一人として知らない間に、
ニシカワルドさんはひっそりと暖炉の前で横たわる美しい銀色のラクダに出会ったのでした。
相手が眠っているとわかると、人は反射的に細心の注意を払うものですよね。
ニシカワルドさんも例外ではなく、そっとハルバルトのそばに近寄ります。
そしてまじまじと彼を見て、あきれたようにつぶやきました。
「おやおや、これはこれは・・・・」

この一人と一匹の関係がいかなるものかは誰も知りません。
でも、ハルバルトさんがこんな大変な旅をしてやって来たぐらいですから、
さぞかし感動的な対面があるのだろうと、皆が思いこんでいたのも無理のないことですね。
できたての焼きリンゴが並べられた暖かい部屋で、弟子達は一人と一匹の様子を
固唾をのんで見守っています。
いろんな物語がすっかり頭の中で出来上がっている娘の中には、すでにハンカチを握りしめている
者まで居ます。
しかし、その後のハルバルトさんの言葉には少なからず驚かされたことは事実です。
「はじめてお目にかかりますニシカワルド様。 私はトットリノ砂漠から来た、月の門の使者でございます」
ハルバルトはニシカワルドさんに向かい、実に礼儀正しく品の良いお辞儀をしました。
ニシカワルドさんはしばらく間をおくと、「そうか、月の門か・・・・なるほどね」と、何か遠い響きに触れた
目をしたようでした。
「それで?使者と言うからには私に用があるのだね」
懐かしむ思いを終わらせようとする言葉が早々に切り出される。
ハルバルトはそんなニシカワルドさんに「はい、絵を描いていただきたいと・・・」と
チラリとニシカワルドさんの反応を確かめました。
「私は画家だからね、依頼されれば絵を描きもする。 しかし何も私でなくとも、そちらの世界にも
画家はいくらでも居るだろう」
そちら・・・という言葉がどういう意味を持つのか定かではありません。
しかしハルバルトはあえて気にした様子も見せず、
「はい、ですがニシカワルドさんにお願いしたいとの仰せで・・・」と答えたのです。
黙って聞いていたニシカワルドさんの顔には、とても一言では言い表せないような思いが、
幾重にも重なって見えました。
ようやく口を開いたとき、ニシカワルドさんは、やっと自分がこの物語の当事者であるのを
思い出したときだったのです。
「・・・で、どのような絵をお描きすればよろしいのかな」
その言葉に頭をたれたままのハルバルトはこういいました。
彼はこの言葉を彼を伝えるためだけに、はるばるトットリノ砂漠を越えてやって来たのです。
「肖像画でございます。 誰を描くかはお任せするとのことでございます」
言い終えてまた深々とお辞儀をするハルバルトの横で、ニシカワルドさんはただ一度深く頷き
席を立ちました。
そこにいた誰とも言葉を交わさぬままドアが閉められ、ドアの向こうから
「次の満月までには仕上げる」という声だけが聞こえてきました。
ハルバルトは使命を果たした安堵感で小さなため息をつき、ゆるゆると床に座りました。
かくして、弟子達がおのおの思い描いていた物語はサクッとなりを潜め、
一人と一匹の対面が終わったのでした。
ハルバルトさんのご主人は、ニシカワルドさんに絵を描いて貰うために使いをよこしたのです。
それだけだったのです。
でも・・・・、
風景画ならいざ知らず、肖像画なら誰を書くのか指定してくるはずですよね。
そんな小さな謎が、心の中でグングン膨れていきます。
だって、信じられないことではありますが、あのニシカワルドさんが食べかけた焼きリンゴを
半分残して行ってしまったのです。
これはもしかすると、あの駆け引きのありそうな会話には、もっとすごい筋書きが隠されているのでは
ないかと弟子達に思わせたのも仕方がないことかもしれません。
弟子達は魔女暦に目をやり、次の満月が来る一週間後を見つめました。
そんな弟子達の様子を見守るように、アイコ−ディアはハルバルトの側に近づくと、
「約束の日まで、どうぞゆっくりしていらしてね」と言いました。
「アイコ−ディア様、ありがとうございました。 そのお言葉に甘えさせていただきます」
立ち上がりかけたハルバルトを止めると、アイコ−ディアはニッコリと微笑んで部屋の外へ出て行きました。
急いで後を追った弟子達に、くるりと振り向いたアイコ−ディアはこういいました。
「あなた方が何を聞きたいのか、よ〜くわかります。 でもそれは彼らの知って欲しいことでは
ないいかもしれませんよ」
片目をつむり、たしなめるように指をチョイチョイと左右に振る魔女は、それはそれは
こだわりのない笑顔で微笑みます。
だから弟子達は気になって気になって仕方がない気持ちを胸に納め、残りの仕事を
片づけにかかりました。
ですが、お師匠様が言った言葉は痛いほどわかるのに、やはり彼女達は月の門や
トットリノ砂漠のことが気になるのです。
「ねぇ、ニシカワルドさんは誰の絵を描くのだと思う?」
ミヤモト−レが呟きました。
「それよりなぜニシカワルドさんなのかしら?」
「それ以前に肖像画と指定してきたことが謎です」
ヤマダリアの言葉にミ−ヤ・チャンが続きます。
「ねぇ・・・・、月の門っていったい何なの?」
ポツリと言ったタムラ−ヌの言葉に、皆は不意に考え込んでしまいます。
そしてその夜、
疑問の一部はアイコ−ディアが解決してくれました。

いつものように暖炉にたっぷりの薪を入れ、見習い魔女達は頬を赤く染めてその周りに集まります
今夜いつもと違うところは、その輪の中にラクダのハルバルトさんが居るところ。
「月の門って言うのはね、トットリノ砂漠の一番北にあるの。 その門のこちら側がトットリノ砂漠、
向こう側は月の砂漠なのです」
「月の砂漠って・・・、お師匠様あの月ですか?」
オオマタ−ヌが見えないお月様を指さすように言いました。
「ええそうよ、この世界は広いわ、いろんな国や不思議な場所があるの。 でも、月とこの世界を
結んでいるのはトットリノ砂漠にある月の門だけなのよ。 もちろん誰でも自由に行き来できるものでも
ありません」
アイコ−ディアがそう言って視線を移すと、その先に居るハルバルトは、居眠りをしているのか
相づちを打ったのか定かではありませんが、暖炉の揺らめきに合わせ2〜3度首を揺らせたように
見えました。
弟子達はこのハルバルトさんが、本当に長い旅をしてきたのだと言うことを知りました。
あのお月様からハルバルトのご主人は、今も自分たちを見ているかもしれません。
そう思うとなんだかとても不思議で、ふと月の光がいつもより暖かな気がいたしました。
「さて、それではみなさんに考えて欲しいことがあります」
アイコ−ディアがこう切り出すと、弟子達はきちんと座り直して背筋を伸ばしました。
その様子を見て口元を微かにほころばせると、アイコ−ディアはこういいました。
「みんなはニシカワルドさんとハルバルトの事が気になるのよね」
弟子達が一斉に困った風な顔をお師匠様に向けると、偉大な魔女は悪戯っぽく微笑むと、
フムフムとうなずきます。
「いいわ、じゃあそれが何故なのかわかっていて?」
弟子達の頭にいろんな答えが駆け回ります。
でもやはり、{いつもと違うから・・・}という事が気にかかっているのです。
「みんなはニシカワルドさんやハルバルトさんが好きなのよね」
大きくうなずく弟子達の顔を見ながら、アイコ−ディアは重ねて聞きます。
「じゃあ、いつもと違うニシカワルドさんはどう?きらいなの?」
驚いて首を振る弟子達にアイコ−ディアはこういいました。
「そんなわけありませんよね、でも、もしかするとみんなの中に自分が勝手に作り上げたニシカワルドさんが
住んでいませんか?」
次に一息置き、アイコ−ディアは自分たちの話をします。
「私たちは魔女ですね。 魔女は悩んだり困ったりして心が疲れてしまった人のお役に立つのですよね」
そう聞いた弟子達は、目を輝かせて大きくうなずきました。
「ええ、そうすることで私達は自分が魔女だと証明しているわけです。 本当に人の約にたつ、その人の
ために私達がすべき事は・・・」
弟子達の顔を見てアイコ−ディアが問いかけます。
「どんなときでも手をさしのべること?」
ミ−ヤ・チャンが暖炉の火を見つめて「いいえ」と答えました。
「自分が我慢してあげること?」
ヤマダリアがちょっと考えて、「いいえ」と答えました。
「みんなが良いと言うことだけをしていること?」
ミゾウラリアがうつむいたまま「いいえ」と答えました。
「そうですよね、いつもいつも人それぞれに事情が違うのですもの。 言葉触りは良くても
それがその時のその人にも良いことだって、決められはしませんね。
魔女が魔女であると証明するのは、自分ではありません。
私達が魔女で居るために必要なことは、自分で良いか悪いか判断することではなく、
きちんと自分自身として相手の前に居られることです。
相手を見て、相手を通して、 自分自身に気づけること。
偏りやこだわりのない素直な心で感じることが出来たとき、私達ははじめて本当に必要なものを
知ることができるのです。 
我慢しないで良いわ、好奇心は素晴らしいわ、今の貴方達で十分よ、
だからそのままの貴方達で大好きなニシカワルドさんとハルバルトさんに接してあげてください」
アイコ−ディアはそれだけ話すと、暖炉の上に置いていたリンゴのポプリを手に取り、
ハルバルトの頭近くにそっと置きました。
「はい、良い夢が見られますように」
アイコ−ディアの優しい声は、ハルバルトにとって恰好の子守歌だったようです。
もっとも彼がそれ以前から眠っていたかどうかは定かではありませんが・・・・。
夜が更け、弟子達はおやすみの挨拶とともに返されるアイコ−ディアのほほえみをそれぞれの
部屋に持ち帰ります。
お師匠様の言葉は、いつも頭で考えていると少しわかりづらいのです。
でも、心はとても暖かいのです。
だから、こんな自分も、あんな自分も、そして、こんな人も、あんな人も、み〜んなそれはそれでいいんだと
思えるようになったみたいでした。
弟子達にも、今ここにいる自分が受け入れるものは、今そこにいる人なのだと、
ほんとうは知っていたのです。
忘れていたわけではなく、ただ気づいただけなのですね。
ワカヤマ−ルは魔法の国、それもとびきり素敵な魔女達が住む国。
だから明日にはまた新しい自分に出会うことが出来ることです。
今夜は誰もが良い夢を見るにちがいありません。
それは、あの遠い月の世界でも、きっと同じにちがいありません。

さて数日後。
「ほら、もうこんなにたくさん!」
大きなバスケットにいっぱいのレンゲを摘んだヤマダリアとミヤモト−レが元気いっぱい扉を開けました。
その後ろから頭にレンゲの冠を乗せ、少し恥ずかしそうなハルバルトさんも入ってきます。
ワカヤマ−ルの季節はこの数日の間に、すっかり模様替えをすませたようでした。
たまに思い出したかのように冷たい風が頬をなでてゆきますが、それさえ今は
はしゃいで火照った体に心地よく感じます。
冬には冬の、春には春の、それはそれでとっても素敵な毎日なのでありました。
見習い魔女には今日がどんな日がちゃんとわかっています。
でも誰一人その話題を口にしません。
けれどもうすぐニシカワルドさんが約束の絵を持ってやってくることでしょう。
その時見習い魔女達に出来ることは、ハルバルトさんに心のこもったお弁当を持たせることと、
ニシカワルドさんに一番大きな焼きリンゴをお出しすることです。
一人一人がそう感じ、みんなで決めたことでした。
見習い魔女は今、一歩本当の魔女に近づいたと思いませんか?
花々が咲き出したのは野山だけではなく、見習い魔女達の頭にあるフラワ−サ−クルも、
実に伸びやかに成長したようです。
しばらくすると、まだお日様が真上に来るよりもうんと早く、ニシカワルドさんが魔女の家にやってきました。
けれど見習い魔女達は、きちんといつも朝にいつものペ−スで働いております。
いつもではないことが起こり、いつもで無くなった人にとって、いつものままで
向かえてくれる人は、とても心地良の良いものなのです。
ニシカワルドさんは肩の力が抜け、ホッとしたようにお茶をすすりました。
そして大事そうに抱えていた包みをハルバルトに差し出すと、満足したように焼きリンゴを食べ始めました。
「ありがとうございました」
そういって頭を下げ、見習い魔女達に開けて貰った絵を覗き込んだハルバルトの大きな目が、
ことのほか大きく見開かれたのをその場にいた誰もが見ました。
「・・・これはまるで、ご主人様がこの中にいらっしゃるような」
ハルバルトが言葉を失うと、
「どんなに小さな仕草も表情も、何一つとして忘れていないつもりだよ。 私の知っているこの人は、
いまだにこのときのままだもの」と、ニシカワルドさんは言いました。
「ええ、ええ、このままでいらっしゃいますとも。 何一つお変わりではありません、なにしろ
こちらとあちらでは違いますので」
ニシカワルドさんは思い出したように頭をポリポリとかくと、
「あ、ああ、そうだったね。 でも私はすっかり変わってしまったよ。 無惨なものだ」と苦笑いをします。
その様子にハルバルトは黙って首を振り、
「辛いときにはそれに頼ることもございます」と答えました。
「確かにそうだ、だが私は何一つとして悔いてはいないし、それにこれっぽっちも忘れはしなかった」
そう言って満足げに絵を見るニシカワルドさんに、ハルバルトはもう何も言いませんでした。
「さあ!今からならまだ日のあるうちにロ−サイ山を越えてオオサカリアまで行けるぞ!」
ニシカワルドさんは追い立てるように旅立ちを促します。
春とはいえ夜はまだまだ寒いのです。 
ハルバルトの体を気遣うニシカワルドさんは、そのため朝一番に家を出たのでした。
見習い貴女達は重くならないように気を付け、ハルバルトさんの鞍にお弁当とおみやげを乗せます。
「皆様には本当にお世話になりました。 このご恩は一生忘れません」
ハルバルトがお別れの挨拶をします。
「ご恩なんて忘れて良いから、また遊びに来てね」
見習い魔女達の言葉にほほえみを返し、ハルバルトはアイコ−ディアとニシカワルドさんに
頭を下げました。
「では、これにて失礼いたします」
頭を上げたハルバルトはしっかりとした足取りでロ−サイ山に向けまっすぐ歩いていきます。
遠ざかるハルバルトが2度振り返った後、アイコ−ディアは弟子達を家の中に追い立てました。
「さあさあ、みんなにはみんなの、それぞれの今日がありますよ」
弟子達は『はい』と返事はしたものの、やはり別れはチョッピリ心を殺風景にさせます。
うつむき加減で部屋に戻ると、オオマタ−ヌがニシカワルドさんのマントに大きなかぎ裂きを
見つけました。
どうやら大急ぎで垣根をくぐるときに破いたようです。
「私が繕って差し上げますわ」オオマタ−ヌが言いますと、「私も」「私も」とミヤモト−レとヤマダリアが
お針箱を持って来ます。
「じゃあ私は、もう一杯熱い紅茶をいれてきますね」とタムラ−ヌが席を立つと、
「そうそう、今日はとびきりの焼きリンゴなの」とミゾウラリアも続きます。
さて・・・ミ−ヤ・チャンはキョロキョロと辺りを見回し、小さく咳払いをすると、おもむろに
ニシカワルドさんが大好きなチェスを持って向かいに座りました。
「おやおや・・・」至れり尽くせりの扱いに少し驚いたニシカワルドさんですが、やはり嬉しさは
隠せないようです。
さてさて、こうしてまた魔女の家にいつもの生活が戻って来るのです。
人は一つ所に留まれはしないもの。
けれど、流されようと踏みとどまろうと、それはそれでその人の良いように生きれば良いことなのです。
この瞬間ニシカワルドさんは、実にゆったりと心地よい流れにたゆたっていると気づいた所でした。

ところで、あの絵には誰が描かれていたのでしょう。
それが実は誰にもわからなかったのです。
いいえ、ちゃんと絵は見たのです。
けれどそれが誰も知らない人だったということなのです。
言えることはそれが素晴らしい出来映えの絵であること、その絵に描かれていたのは神秘的で、
それはそれは美しいお姫様であったということ。
そして、おつむから優雅なペ−ルを垂らしたその人は、気づかぬ内に涙がこぼれるほど、
優しい笑顔を浮かべていたと言うことでした。

それからしばらくしてからです。
ワカヤマ−ルに不思議な噂がたちました。
それを聞いたアイコ−ディアはおなかを抱えて笑ったそうです。
いやせぬ悲しみ以外何が起こっても不思議ではないこの国ですが、
『魔女の家に行けば、どんな昔の心の傷も、弟子達が繕い物をするように癒してくれる』
のだそうです。